20世紀のスー族のメディスンマンでレオナルド・クロウドッグの父、ヘンリー・クロウドッグは、土産物屋でインディアンのパイプが売られていることの是非について問われた際に、これを肯定し、「インディアンにとってのパイプは、白人にとっての聖書と同じだ」と述べている。スー族のインディアンたちはミネソタ州のパイプストーン国定記念物からしか採れない赤い石(パイプストーン)でパイプの火皿を作る。この鉱物は、画家ジョージ・カトリンに因んで「カトリナイト(Catlinite)」と名付けられている。スー族の伝承では、カトリナイトは先祖の血で出来ているとされる。聖なるパイプの火皿の素材となるカトリナイトの採石場は全ての部族にとって中立の土地とされていた。長らく条約を破った白人による不法占拠が続いたが、現在ではスー族が占有権を持ち、ここでカトリナイトを採掘できるのはインディアンだけである。インディアンはヨーロッパの風土病に対する免疫を持たなかったため、ヨーロッパ人と初めて接触したインディアンはしばしば容易にヨーロッパからの伝染病に感染し、斃(たお)れた。インディアンの人口は激減し、インディアン社会は深刻な打撃を被った。また、初めて見る馬や兵器によって、インディアンはパニックに陥り、たった十数人のスペイン騎士に対して何千人ものインディアンが敗走するという事態も招き、こうした闘争によって土地を奪われていった。17世紀の前半から18世紀末までの長い闘争の歴史を一括りにして、インディアン戦争と呼ぶ。
スペイン語・ポルトガル語ではインディオ (Indio)。多くの国では、インディアンとインディオの違いは翻訳に過ぎないとみなされているが、日本では、北米(アメリカ合衆国、カナダ)の諸民族をインディアン、中南米の諸民族をインディオと呼び分けることが多い。ここでも主にその範囲で述べる。英語のインディアンは直訳するとインド人の意味である。歴史的な文脈では、旧イギリス領インド全域や東南アジアの住民を含むこともある。何故「インディアン」が二義的な意味を持つようになったかについて、『クリストファー・コロンブスがカリブ諸島に到達した時に、インド周辺の島々であると誤認し、先住民をインディオス(インド人の意)と呼んだことから、アメリカ先住民(の大半)をインディアンと呼ぶようになったからだ』といわれる。
エリー湖は、五大湖の中で最後に発見された湖であり、オンタリオ湖から流れ出る川をたどって、ヒューロン湖に荷物を運んでいたフランス人の探検隊によって発見された。他の五大湖と同じように、冬にエリー湖の上を吹く冷たい風は大量の水分を含み、対岸の都市に大雪をもたらすことで知られている。これにより内陸部であるにもかかわらず南岸にあるバッファロー市は、アメリカで最も雪が降る都市の1つである。しかし、エリー湖は冬の極寒期には凍結し、その影響は和らぐ。エリー湖の水は周囲の農業に多大な恵みをもたらす。北岸のカナダ側は様々な野菜や果物を生産しており、その生産量はカナダ国内でも上位に位置する。南岸のペンシルベニアやニューヨーク州では、ブドウが生産されている。
オスマン帝国は戦争が始まるとドイツに対して対ロシアの攻守同盟を申し入れたが、参戦するか否かは決めかねていた。オスマン帝国の背中を押したのはドイツの巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウだった。2隻は開戦時に地中海にあったが、イギリス地中海艦隊の追跡を逃れてイスタンブルに逃げ込むことに成功した(ゲーベン追跡戦)。2隻の譲渡を受けたオスマン帝国はこれで黒海の制海権を確保できると考えた。ロシアが10月31日にオスマン帝国へ宣戦したことを契機に、オスマン帝国は中央同盟国側に立って参戦した。オスマン軍はロシアのカフカース地方、およびスエズ運河を経由するイギリスとインド・東洋間の連絡線を脅やかした。これに対してイギリスは、西部戦線での膠着状態の打開とロシア支援を目的として、ガリポリ上陸作戦とメソポタミア作戦を立案した。特にガリポリ上陸作戦は、海軍大臣ウィンストン・チャーチルが熱心に推進した。1915年2月、ダーダネルス海峡の制圧を目的として、英仏の艦隊は海峡両側のオスマン軍陣地へ艦砲射撃を加えたが、オスマン軍は粘り強く抵抗し、3月18日にはオスマン軍が敷設した機雷に接触してイギリス戦艦3隻が沈没、3隻が大破した。4月25日、連合軍はガリポリ半島へ上陸したが、オットー・リーマン・フォン・ザンデルスの率いるオスマン軍に前進を阻まれ大きな犠牲を出した。上陸作戦は失敗に終わり、1916年1月に最後のイギリス軍部隊が撤退した。