日本において『アメリカインディアンの教え』と呼ばれる詩は、教育者ドロシー・ロー・ノルト(Dorothy Law Nolte)が1954年に創作したものであり、原題は”Children Learn What They Live”という。ノルトはアメリカインディアンではなく、詩もアメリカインディアンの伝承に基づくものではない。邦題はこの詩をノルトの創作と知らずに自著でとりあげた加藤諦三の創作である。各々の部族に固有の文化は、関連項目の各部族の項を参照。2000年の国勢調査で「自分はアメリカインディアンまたはアラスカの先住民」と申告したアメリカ人は、247万人で10年前よりも26%増加していた。さらに一部インディアンの血を引くとした者は160万人だった。都市部で暮らし、保留地外の白人の町で暮らすインディアンは、「シティー・インディアン」と呼ばれる。 特にニューヨークは全米の都市の中で最も多くのインディアンが住み、約8万7000人ものインディアン(モホーク族やモヒカン族など)がニューヨークで暮らしているといわれている。
アメリカの重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメは先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着アノラックやパーカは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食のペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。 ニューヨーク州立大学バッファロー校のドナルド・A・グリンド・ジュニア博士(Donald A. Grinde Jr.)をはじめとする歴史学者らは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。先住民族はしばしばアメリカのロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、アメリカの地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークのタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。しかし先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。1960年代に入り、公民権運動を通して人種差別に対する国民の意識が高まり、心霊主義や環境主義に対する関心が高まってようやく、先住民族の文化が再評価されるようになった。
1970年に上層の行政体「ナイアガラ地域」が発足した際に、同市はチパワ村を始め、周辺の町や村を合併して現在の姿となる。トロントからナイアガラフォールズ市までの区間、高速道路を通じて130kmで結ばれている。エリー湖からオンタリオ湖へ流れ注ぐナイアガラ川とナイアガラの滝に沿ってナイアガラフォールズ市は建てられた。
ほとんどのインディアン社会は性的に自由だった。男女の役割は個人の判断に任され、またインドのヒジュラーのような聖職に従事する社会的半陰陽は、ヒジュラーよりも強い地位を持っていた。白人によってこれらの存在は徹底的に弾圧され、社会的な役割としては姿を消しているが、メキシコやプエブロ諸族の一部のほか、スー族社会における「ウィンクテ」(右図)と呼ばれる存在は、女装こそしなくなったが、現在でも健在である。人類学者はインディアン社会に見られる社会的半陰陽を「ベルダーシュ」(berdache)と呼んできたが、本来の語義が「男娼」を指すエクソニムであるため、差別的で不適切と考えられている。1990年にウィニペグで開催されたネイティブアメリカン=ファーストネーション部族間ゲイ・レズビアン会議で、それに代わる呼称としてオジブウェー語で社会的半陰陽を指す「ニーシュ・マニトゥーワク」(niizh manidoowag、「二つの魂」の意)から翻訳借用した「トゥー・スピリット」 (Two-Spirit)を使用することが議決された。1881年、アメリカ連邦議会はインディアンのあらゆる宗教儀式を非合法化した。かつては「発汗小屋(スエット・ロッジ)」の話をしただけで逮捕されたのである。しかし逮捕や投獄の圧力を受けても、インディアンたちは脈々と信仰を受け継いできた。現在インディアンの間にもっとも普及している宗教はコマンチェ族最後の酋長クァナー・パーカーを開祖とする『ネイティブアメリカン教会』(Native American Church)である。キリスト教のシンボリックな要素と多くの異なった部族からの霊的な習慣の要素を組み込んで1890年代に興った習合的な教会である。ちなみに、クアナ自身は生涯、キリスト教徒にはならなかった。