だが19世紀末になると、ドイツの国力の伸張により、次第にイギリスとドイツとの対立関係が深まっていった。イギリスとドイツは海上における覇権を競って建艦競争を繰り広げた。イギリスは覇権維持のため、1904年にフランスとの長年の対立関係を解消して英仏協商を締結し、他にも1902年に日英同盟を、1907年に英露協商を締結した。こうしてヨーロッパ列強は、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商との対立を軸とし、さらに多数の地域的な対立を抱えるという複雑な国際関係を形成した。1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継、フランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都、サラエヴォでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺された。オーストリアのレオポルト・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆるオーストリア最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日に国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対する宣戦布告が行われた。ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた。オーストリアのセルビアへの宣戦布告を受けて、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝ニコライ2世へ圧力を掛けた。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世の間の電報交渉[4]は決裂。ロシア政府は、部分動員では手遅れになる可能性を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。
「サン・ダンス(Sun Dance)」とは、スー語の「ウィワンヤンク・ワチピ(太陽を見つめる踊り)」を英訳したものである。平原の部族は、死ねば無条件で「狩猟の楽園」へ行くことができ、このため、今世は楽しみごとに費やすべきだと考えた。ただ、「大自然の力は放置すると衰退する」としてスー族やブラックフット族、シャイアン族、カイオワ族など平原部族の多くは、毎年夏至の頃に、大自然の回復と部族の繁栄を祈祷し、誓いを立てて大精霊に祈りを捧げるこのサン・ダンスの儀式を行う。とくにスー族は、この儀式の中で最大の要として、「ピアッシングの儀式」を行う。これは、前年に「ピアッシングの誓い」を立てたものが、胸や背の皮膚に穴を開け、鷲の羽根や骨の棒を突き通し、バッファローの皮のロープで広場の中央に立てられたハコヤナギの「サン・ポール(太陽の柱)」と身体を結びつけ、メディスンマンの合図で皮膚がちぎれるまで太陽を見つめながら踊ったり走ったりすることで、大精霊に自らの肉体を捧げる苦行である。(図参照)。ピアッシングで最も苛烈なものは、バッファローの頭蓋骨を背中につないで走るもので、祈りの度合いによって頭蓋骨の数が増やされる。サンダンスで「ピアッシングの誓い」を立てた者は、翌年から毎年都合四回、必ずこれを行わなくてはならない。
最終氷期の時代、現在のトロントは氷河前縁湖であるイロコワ氷河湖(Glacial Lake Iroquois)に覆われていた。今日、イロコワ湖岸(Iroquois Shoreline)で知られる氷河湖岸の跡を断層に見ることができる。これはスカボロの断崖(Scarborough Bluffs)を形成した断層でビクトリアパーク通り(Victoria Park Ave.)とハイランド・クリーク(Highland Creek)の河口の間に沿ってよく見ることができる。そのほか、セントクレア通り(St. Clair Ave.)に沿ってバサースト通り(Bathurst St.)とドン川の間にも見ることができる。トロントは高低さがあまりなくオンタリオ湖岸の海抜75mに対し、市内の北端に位置するヨーク大学近くの海抜は270mである。トロント港にある現在の湖沿岸の土地は人工よってできた埋め立て地で、19世紀中頃の湖岸は今より1kmほど内陸にあった。国内では南部に位置し、オンタリオ湖に接していることからトロントの気候はカナダの中では穏やかである。湿度の高い大陸性の気候でケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候(Dfa)に分類される。夏は暑く湿度があり、冬は一般的に寒いが、カナダ北部やアメリカ北西部の内陸と比べると温暖である。
ザンベジ川上流の玄武岩台地には砂岩で満たされた大きな割れ目(クラック)が数多く存在している。現在の滝のある場所には、東西(いくつかは北東-南西)に走る大きなクラック群と、それらを接続するように南北に走る小さなクラック群がある。滝は過去10万年以上もの年月をかけて砂岩のクラックを侵食し、 Batoka Gorges を北に後退し続けてきた。滝の下流の峡谷に、滝の辿ってきた地質学的な歴史を見ることができる。滝の下流にジグザグに続くSecond Gorge から Songwe Gorge までの峡谷は、それぞれが各時代における滝の痕跡である。これらの峡谷は、かつての滝が現在よりも大きなものであったことを示している。現在、川は北から南に向かって First Gorge に流れ込んでおり、すでに滝の西の端にある Devil's Cataract で次の時代の滝となる峡谷が侵食されつつある。これは南北に走る小さな峡谷ではなく、東北東に向かって走る大きな峡谷の一番西側の端の部分にあたる。これが、次の世代のヴィクトリアの滝となる。