南北戦争以前は、ナイアガラ川は南部から逃亡してきた黒人奴隷にとってはオハイオ川と並んで重要な意味を持っていた。南部の奴隷州から逃亡してきた奴隷を自由の身としてくれるのがオハイオ川であるならば、さしづめこのナイアガラ川は彼らの自由を保障する川であった。オハイオ川を渡って北岸の州、特にオハイオ州にたどり着いた奴隷は地下鉄道によってさらに北へと秘密裏に逃亡を続け、カナダを目指した。南部の農園主がカナダから奴隷を連れ戻すことは禁じられていたからである。オンタリオ州南部には、こうした逃亡奴隷が住み着いて形成されたコミュニティがいくつもある。一方、ナイアガラ崖線とナイアガラ滝は長い間、水上交通の阻害要因であった。古くは、ナイアガラ滝をはさんで連水陸送のための道路が用意されていた。貨物を船から降ろし、陸路で輸送した上で別の船に積むための拠点として、カナダ側にクイーンストンとチッパワの村(現ナイアガラフォールズ市内)があった。1825年にエリー運河が、1829年にウェランド運河が開通すると、ナイアガラ滝を避けてエリー湖とハドソン川の間、またエリー湖とオンタリオ湖の間に船を通すことができるようになり、大西洋とエリー湖が2本の水上交通路で結ばれた。ウェランド運河はその後3回ルート変更がなされ、1932年に開通した第4運河が現在使用されている。エリー湖に流れ込む主な川は、ヒューロン湖とセントクレア湖を源泉とするデトロイト川であり、流れ出た水はナイアガラ川とナイアガラの滝を経て、オンタリオ湖に流れ込む。エリー湖から下流への水運は、五大湖を結ぶグレートレーク・ウォターウェイ (Great Lakes Waterway) の一部であるウェランド運河 (Welland Canal) が使用される。エリー湖に流入、流出する他の主な川は、グランド川 (Grand River)、レイスン川 (River Raisin)、マウミー川 (Maumee River)、カヤホガ川 (Cuyahoga River)である。
フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。さらにフランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。すでに1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗し、前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内・国外の情勢の中、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態をおしすすめることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。そして、1804年には、議会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせる皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。
国土は、北アメリカ大陸中央部の大西洋と太平洋に挟まれた本土(48州と連邦政府直轄地である首都ワシントンD.C.)、大陸北西部のアラスカとアリューシャン列島(アラスカ州)、太平洋のハワイ諸島(ハワイ州)。さらに本国の他に、プエルトリコやグアム島などの海外領土を領有する。アラスカとハワイを除く本土は、北はカナダ、南はメキシコと隣接。アラスカ州はベーリング海峡を挟んでロシアと接する。正式名称は、United States of America。 通称は、United States、略称は、U.S. または USA。口語ではAmerica または The States と呼ぶ場合もある。日本語での正式名称は、アメリカ合衆国。通称は、アメリカ、合衆国(がっしゅうこく)、米国(べいこく)となっている。幕末や明治初期にはアメリケン(メリケン)と呼ばれた。American の発音がそのように聞こえたためと考えられる[3]。このため、メリケンの漢字表記「米利堅」の最初の一文字を取って米国と略称され始める。ただし、日本語でのより一般的な漢字表記は亜米利加であり、これが由来だとする説もある。中国語では「美国」と表記される。「美国」より以前には「花旗国」と呼ばれていた。これはアメリカの国旗(星条旗)を見た中国人が、そのデザインを気に入り「花のように美しい旗の国」と表現したためである。たとえば1902年に上海に支店を出したシティバンクは花旗銀行と呼ばれている。[4]。
日本語での正式名称は、アメリカ合衆国。通称は、アメリカ、合衆国(がっしゅうこく)、米国(べいこく)となっている。幕末や明治初期にはアメリケン(メリケン)と呼ばれた。American の発音がそのように聞こえたためと考えられる[3]。このため、メリケンの漢字表記「米利堅」の最初の一文字を取って米国と略称され始める。ただし、日本語でのより一般的な漢字表記は亜米利加であり、これが由来だとする説もある。中国語では「美国」と表記される。「美国」より以前には「花旗国」と呼ばれていた。これはアメリカの国旗(星条旗)を見た中国人が、そのデザインを気に入り「花のように美しい旗の国」と表現したためである。たとえば1902年に上海に支店を出したシティバンクは花旗銀行と呼ばれている。[4]。国名の America は、アメリカ大陸の名、すなわち、イタリア人の探検家アメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名から付けられた。その詳細については、アメリカ州を参照のこと。日本語の「合衆国」という表記の由来や意味については、合衆国を参照のこと。「アメリカ合衆国」の代わりに、より正確な訳であるとして「アメリカ合州国」を使用する人たちや「連邦政府」という呼称があることから「アメリカ合衆国連邦」と呼ばれることもある。イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国の「発見」を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。