スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。20世紀の著名なイエズス会員の中には「第2バチカン公会議のデザイナー」とも呼ばれるジョン・コートニー・マリがおり、彼は同会議の文書の一つ「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae Personae)の草稿を書いたことで知られる。イエズス会は会員数20000人、活動地域は六大陸に112カ国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会である。現在の総長はアドルフォ・ニコラス。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたるが、特に有名なのは依然として高等教育である。世界各地にイエズス会の大学と高等教育機関があるが、現在この分野でもっとも活発なのはインドとフィリピンであろう。各地のイエズス会学校は所在地の文化に適応した教育を行っているが、「人生のモデルとしてのキリスト、生涯教育のスタートとして知的・霊的教育」という共通の教育目標を掲げている。
このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。北部は当初、南部に勝てるはずがないと見込んでいた。接近戦となると武器に優れ、強靭な肉体を持つ黒人奴隷と戦うことを想定すると、勝てる見込みはないとしていたのである。そこで北部はしきりに奴隷解放を謳い上げ、黒人の戦争の不参加を促すことに成功した。南部は独立を求めた。その理由は奴隷制の維持である。独立しなければ奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を忌避した連邦は、強い主権国家を標榜しており、南部諸州の離脱は認めがたかった。また当時、アラスカはロシア領であり、数年前にクリミア戦争で南下政策が食い止められたばかりであった。合衆国としての強い基盤を築くためには、独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。
バージニア州では、インディアンは異様な問題に直面している。バージニア州には連邦承認部族が存在しないが、それはひとえに州の人口動態統計局の記録係を1912年から1946年まで務めたウォルター・アシュビー・プレッカー(Walter Ashby Plecker)によるところが大きい。プレッカーは優生学を信奉する白人至上主義者であり、州内のインディアンはアフリカ系アメリカ人と混交しつつあると信じていた。「白人」と「有色」のただ二つの人種だけを承認するという法律が州議会で可決され、プレッカーは自治体政府にすべての州のインディアンを「有色」として再分類するよう圧力をかけ、バージニア州に居住するインディアンの記録の大々的な破壊を引き起こした。連邦による部族の承認と、それが生み出す利益を受けるためには、個々の部族は1900年以降の部族の継続的な存在を示す必要があるが、連邦政府は、プレッカーによる記録の破壊を知りながらこのお役所的な要件をこれまで曲げようとはしなかった。現在、この要件を和らげる法案が、バージニア州選出のジム・ウェブ(Jim Webb)およびジョン・ウォーナー上院議員に支持され、上院の主要な委員会に好意的に報告されているが、しかし下院ではバージニア州のヴァージル・グッド(Virgil Goode)議員が、連邦の承認はインディアン・カジノ設立につながり、州内のギャンブルを促進することになるとして、この法案に反対している。2007年12月、ラコタ・スー族は、“アメリカ合衆国政府は独立地域であることを保障する条約を締結以来150年にわたって遵守していない、我らの忍耐はもはや限界に達した”として、条約の破棄とアメリカ合衆国からの独立を宣言。独立国家ラコタ共和国であることの承認を求める書簡をボリビア、ベネズエラ、チリ、南アフリカ共和国などに送付すると共に国務省にも宣言書を提出した。現在、国づくりの方向性を巡っては、部族は二派に分裂している。「文化」の項でも上述したように、平原部族である彼らの文化は部族全体を統括するような指導者はおらず、個人主義に基づく合議制だからである。
近隣のラブキャナルは、1978年にアメリカ合衆国大統領ジミー・カーターがそこで緊急事態を宣言し、数百の住民が移住したときに国中のメディアの注目を浴びた。[1]1920年に始まってこの地域は化学産業廃棄物(後に毒性産業廃棄物)の埋立地に使われてきた後に、住宅地域として開発されることになった。住民、家族、地域社会などを甚だしく毒性物質に汚染された地域から守るためのスーパーファンド法は、ラブキャナルの状況に対応して1980年に法制化された。カナダ側の双子都市オンタリオ州のナイアガラフォールズ市は1990年代に大々的に観光産業に力を入れ、カジノや高層ホテルを許可してカナダのラスベガスと言われるようになったのに対し、ニューヨーク州のナイアガラフォールズ市は商売っ気がなく、より自然の外観を残している。しかし2004年に先住民族のセネカ族が元ナイアガラフォールズ会議市民会館にセネカ・ナイアガラ・カジノを会館し、これによって市の中心部に先住民族の独立した領土を打ち立てた。ナイアガラフォールズ市の経済は元々滝そのものの周り、あるいは少なくとも大量の落水によって生み出される電力に基盤があった。この安価で豊富なエネルギー源は工業地帯の急速な立ち上げの影の推進力であった。19世紀の終りごろ、イタリアやポーランドなどのヨーロッパ諸国から多くの移民が、この地域のオクシデンタルなどの会社に所有される化学、鉄鋼など製造業の工場で働くために移住してきた。