そのほか、ナイアガラ・フォールズビュー・カジノ・リゾートとカジノ・ナイアガラの二つのカジノがある。滝沿いの観光地区にはホテルが多く立ち並び、隣接して店が立ち並ぶクリフトンヒルがある。ナイアガラの滝は世界三大瀑布のひとつではあるが、唯一世界遺産には登録されていない。ウィキペディアはオープンコンテントの百科事典です。基本方針に賛同していただけるなら、誰でも記事を編集したり新しく作成したりできます。ガイドブックを読んでから、サンドボックスで練習してみましょう。質問は利用案内でどうぞ。
外交的な論争が何年も続いた挙げ句の開戦ではあったが、どちらの側も戦争の準備はあまりできていなかった。イギリスはナポレオン戦争に掛かりきりでいた。イギリス陸軍の主力はスペインでの半島戦争に取られており、イギリス海軍はヨーロッパの海上封鎖を強いられていた。1812年6月のカナダ駐在イギリス軍は公式の数字で6、034名となっており、これにカナダ民兵が支援していた。米英戦争の間、イギリスの陸軍及び植民地担当大臣はヘンリー・バサースト伯爵であった。開戦から2年間、イギリスは北アメリカの軍隊を補強するゆとりがなかったので、北アメリカ総司令官ジョージ・プレボスト中将に防衛的な戦略を採らせた。このことはプレボスト自身の考えでもあった。しかし、1814年になると、戦争経験のある25、000名以上の大規模な増援が可能になったにも拘わらず、プレボストのニューヨーク侵攻はプラッツバーグの戦いでの敗北で挫折した。また南部のルイジアナ侵攻もニューオーリンズの戦いで反撃された。一方、アメリカ合衆国の方は楽観的に見過ぎていた。マディスン大統領は、民兵が容易にカナダを確保し、その後に停戦交渉を行えばよいと見ていた。1812年、アメリカ陸軍の正規兵は12、000名を切っていた。アメリカ合衆国議会は陸軍兵力を35、000名まで拡張することを認めたが、従軍は志願に頼り、給与が少なくて不人気だったうえに、最初の内は訓練を積み経験のある士官が少なかった。民兵は正規兵の応援を要請されたが、その所属する州の外での従軍には反対し、規律もあまり良いとは言えず、さらに出身州の外で敵と遭遇すると働きが悪かった。合衆国は戦費を賄うことが非常に難しい状態にあった。これは丁度国立銀行を放棄したばかりであったことと、北東部の民間銀行が戦争に反対していたことによっていた。
2006年6月、フォーシーズンズセンターが完成し、オペラ製作会社であるカナディアン・オペラ・カンパニーとカナダ国立バレエ団が本拠としている。ダイアモンド・シュミット建築事務所による設計でヨーロピアン様式の観客席になっている。座席数は2、000席。トロント大学もまた大きく変わっている場所のひとつで、2001年以降、次々とビルの拡張や新築が行われており、ノーマン・フォスターやギュンター・ベーニッシュによってデザインされた校舎や宿舎がある。そのほかの大きなプロジェクトにはガーディナー博物館[2]やトロント王立音楽院、カナダ国立バレエ団の建物などがあり、これらはトロントの建築業界で大きな役割を果たしているクワバラ・ペイン・マッケナ・ブラムバーグ建築事務所によって設計されている。
そもそも「ネイティブ・アメリカン」という呼称は、BIAの意向を受けて「インド人(Indian)」を祖先に持つ「インド系アメリカ人(Indian American)」と区別するために、人類学者が作った造語である。この「ネイティブ・アメリカン」とする場合の表記は、一般的には先頭に「大文字の「N」が使用される。一方、歴史的呼称としての「インディアン」に誇りをもつインディアン達はこれをあくまで自称とし、またその名称を替えること自体が差別的であるとしている。これはそもそも「アメリカ」という地名そのものが後付であり、別の視点では、白人が過去の不正行為から目を背けて「インディアン」という言葉を削除し、「先住民」という大雑把なくくりの中に埋没させ、問題を平均化し薄めさせようとしているのではないかという考えからである。(→アメリカ州の先住民族の呼称論争)その代表的な一人である、ラコタ・スー族の活動家、ラッセル・ミーンズ(Russell Means)は、「アメリカインディアンへの承諾なしに連邦政府がこの“ネイティブ・アメリカン”という用語を使用している」として批判しており、1996年に行った声明、及び1998年に著したエッセイなどで、ミーンズは「I Am An American Indian、 Not a Native American!(私は“アメリカ・インディアン”だ。“ネイティブ・アメリカン”ではない!)」とし、さらに「 I abhor the term 'Native American'.(私は“ネイティブ・アメリカン”という用語を憎悪している)」と続けている。