ナイアガラフォールズ市の経済は元々滝そのものの周り、あるいは少なくとも大量の落水によって生み出される電力に基盤があった。この安価で豊富なエネルギー源は工業地帯の急速な立ち上げの影の推進力であった。19世紀の終りごろ、イタリアやポーランドなどのヨーロッパ諸国から多くの移民が、この地域のオクシデンタルなどの会社に所有される化学、鉄鋼など製造業の工場で働くために移住してきた。ナイアガラフォールズ市の重要性は20世紀後半に幾つかの理由で減少した。おそらく最も影響の大きかったのは、腐敗した政府、アメリカの他の地域に比較してブルーカラー労働者の高賃金、組合の強さおよび高い税金であった。以前はナイアガラフォールズで安価に生産された製品が他のどこでももっと安く生産されている。もう一つの大きな理由は当時の国家的現象であった郊外への移動であった。市内には最高時に10万人以上の人口があったが、工場が閉鎖され人々が雇用機会を求めて南部や西部に移住するにつれて、人口がほぼ半分になった。しかし、ナイアガラフォールズ市とナイアガラ郡の残りの地域にとって新たな経済繁栄の時代がゆっくりと訪れている。地域や州の政府はナイアガラ地域が元々持っている物理的および文化的な利点を生かそうとし始めた。すなわち、ナイアガラ渓谷、急成長するワインの道、歴史的景観、そしてもちろんナイアガラの滝そのものである。町の過去の産業から離れてより持続可能な観光業に基づく経済に移行することは、近年、市を生き返らせつつある。2001年遅く、ニューヨーク州は、州の経済開発機関であるUSA Niagara Development Corporationを立ち上げ、特にナイアガアフォールズ市中心街の開発促進に焦点を当てている。
1900年頃になり、セシル・ローズによるイギリス南アフリカ会社がザンベジ川上流の鉱物採掘権と植民地支配、さらに象牙、獣皮、滝北東部での森林伐採などを狙って進出してきた。これに合わせて滝の周辺へのヨーロッパ人の入植が始まった。当時は滝の上流数kmにある Old Drift という場所に川を横切る鉄線が張られており、それを伝って丸木舟やはしけで川を渡っていた。セシル・ローズはカイロとケープタウンを鉄道で結ぶことを考えており、ザンベジ川に橋を建設することになった。さらに彼は通過する列車に滝の噴煙がかかるような場所に橋を建設すべきだと主張し、Second Gorge が選ばれた。そして1905年、ヴィクトリアフォールズ橋が完成した。1905年には南のケープタウンと、1909年には北のコンゴ(当時はベルギー領)とが鉄道で結ばれ、ヨーロッパ人が簡単に訪れることができるようになった。当時、滝の北側の北ローデシア(現ザンビア)と南ローデシア(現ジンバブエ)はいずれもイギリス領であり、観光地としての人気は鰻上りであった。そして、ヴィクトリアフォールズ町は観光拠点として発展した。
製造業の多くは市外に拠点を置くが、それでも卸売りと流通産業においてトロントは重要な拠点となっている。 ケベックシティとウィンザーを結ぶ道路と鉄道路線網は、沿道の自動車産業や製鉄、食品、機械、化学、製紙業の生産において重要な要素を担っており、1959年に完成したセントローレンス海路は五大湖と大西洋を船で航行することを可能にしている。カナダ統計局による最新の国勢調査の統計によると2006年の人口は250万3、281人で2001-2006年の人口増加率は0.9%であった。国際連合開発計画によると、トロントは国外で生まれた移民の割合がマイアミに次いで世界で2番目に多い都市となっており、マイアミでは移民の出生地の多くはキューバや他の南米諸国であるのに対し、トロントはひとつの国や文化が圧倒的な割合を占めることがなく多様性に富んでいる。トロント都市圏の人種別構成は2006年国勢調査では下記の通り。( )内はトロント市内
1538年の10月イグナチオはファーヴルとライネスの二人を連れて再びローマを訪れ、会憲の許可を願った。審査した枢機卿会の面々はほとんどが好意的にこれを評価したため、教皇パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』(Regimini Militantis)でイエズス会に正式な認可を与えた。このとき、与えた唯一の制限は会員数が60名を超えないようにということであった。この制限も1543年5月14日の回勅『インユンクトゥム・ノビス』(Injunctum Nobis)で取り払われた。イグナチオは会の初代指導者(総長)に選ばれ、会員たちをヨーロッパ全域に学校や神学校設立のために派遣した。会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴であった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。イグナチオが1554年に改定した会憲では、イエズス会が総長をトップとする組織であることが明記され、教皇と会の長上への絶対的な従順を会員に求めた(イグナチオは「死人のごとき従順」(perinde ac cadaver)という言葉を用いている)。彼の座右の銘はイエズス会の変わらぬモットーとなった。それは「神のより大いなる栄光のために」(Ad Maiorem Dei Gloriam)である。これは「どんな活動でもよい意志をもって精力的におこなえばかならず神の国のためになる」という精神を表している。