インディアン管理局(BIA)の公式な質疑応答テキストには、こう記してある。「この“ネイティブ・アメリカン”という用語は、1960年代にBIAが、そのサービス対象グループに対して使用し始めたもので、当初はインディアンとアラスカ先住民(アラスカ・インディアン、エスキモー、アレウト)を指していた。のちに、連邦の枠組みに入るハワイ先住民と太平洋諸島民などを含むようになった。しかし、それはかなりのインディアン・グループから不評を得ている。優先使用語は“アメリカ・インディアン”である。」そもそも「ネイティブ・アメリカン」という呼称は、BIAの意向を受けて「インド人(Indian)」を祖先に持つ「インド系アメリカ人(Indian American)」と区別するために、人類学者が作った造語である。この「ネイティブ・アメリカン」とする場合の表記は、一般的には先頭に「大文字の「N」が使用される。一方、歴史的呼称としての「インディアン」に誇りをもつインディアン達はこれをあくまで自称とし、またその名称を替えること自体が差別的であるとしている。これはそもそも「アメリカ」という地名そのものが後付であり、別の視点では、白人が過去の不正行為から目を背けて「インディアン」という言葉を削除し、「先住民」という大雑把なくくりの中に埋没させ、問題を平均化し薄めさせようとしているのではないかという考えからである。(→アメリカ州の先住民族の呼称論争)
世帯と家族(対世帯数)ナイアガラフォールズ市では、週刊の「ナイアガラフォールズ・リポーター」と日刊の「ナイアガラ・ガゼット」の2紙が発行されている。住民はナイアガラフォールズ市学区の中に組み込まれている。ラサール高校が1990年代遅くに閉鎖され、新しくナイアガラフォールズ高校が開校した。この新しい高校はラサール高校と元ナイアガラフォールズ高校を合併させたものである。パイン・アベニューとポーテージ道路にある元ナイアガラフォールズ高校の建物は芸術文化センターとなった。
このような防御側優位の状況の中、西部戦線では塹壕戦が生起した。スイス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて化学兵器(毒ガス)が使われた。1867年、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。ハプスブルク家の長はオーストリア皇帝とハンガリー王を兼位し、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。しかしこの大規模な改革によってすら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。当時の帝国内には9言語を話す16の主要な民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。帝国の最大の関心は東方問題にあった。台頭するスラヴ人の民族主義運動は、帝国政府を主導するドイツ人とマジャール人にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族運動を警戒する必要に迫られた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。
なお日本における漢字表記は「加奈陀」、通常「加」と略す。「加国」「加連邦」とも。ただし「加州」はアメリカ合衆国のカリフォルニア州のことを指し、その省略も「加」である。特に「日加協会」「日加合同〜」などといった名称の団体や事業がカナダとカリフォルニアの双方に多く存在するので混乱を招きやすい。中国語における表記は「加拿大」であり、日本における表記と同様に「加」と略される。国名はセントローレンス川流域イロコイ族の「村落」を意味する語「カナタ」(kanata)に由来する。ジャック・カルティエがセントローレンス川流域をカナダと呼ぶようになり、その後地図上でもカナダと表記されるようになった。