先ずアメリカは、英領カナダの奪取を狙い、カナダ領内に侵攻。エリー湖、オンタリオ湖をおさえ、アッパー・カナダの制圧には成功するも、セント・ローレンス川の水運をおさえることはできず、結果モントリオール、ケベックの攻略は失敗し、ロウアー・カナダの制圧はできなかった。こうしてアメリカのカナダ侵略の野望は潰えた。大西洋においても海戦がおこなわれていた。アメリカ海軍はイギリス海軍に較べ、戦闘艦の数も質も圧倒的に劣勢ながら、戦争前半は善戦した。しかしヨーロッパ大陸でのナポレオン戦争の帰趨が対仏大同盟側に有利になると、イギリスは海軍力をアメリカに向けたため、後半はその活動を封じ込められた。この戦争で英艦を破った米艦コンスティテューションは三笠、ヴィクトリーと並んで、世界三大艦の1つとして有名である。また私掠船も盛んに活動した。1814年、海軍に輸送されたイギリス陸軍は敵首都の直接攻略のためアメリカ東海岸に上陸、首都ワシントンD.C.は陥落、大統領府も焼かれてしまった。
水圧鉄管の本数は発電所にある水車発電機の台数に等しい場合もあるが、発電所で水圧鉄管を分岐させ、各水車発電機に接続する場合もあるので一概には言えない。水圧管路は地上に設置される例が多いが、トンネルなどにより地下に埋設されることもある。ここで言う狭義の発電所は、水車発電機、調速機、補機、制御装置、保護装置、変電設備などによって構成された建築物(建屋)を指す。 現在、水力発電所の多くは無人であり、遠方の制御所より遠隔操作されている。
日本語での正式名称は、アメリカ合衆国。通称は、アメリカ、合衆国(がっしゅうこく)、米国(べいこく)となっている。幕末や明治初期にはアメリケン(メリケン)と呼ばれた。American の発音がそのように聞こえたためと考えられる[3]。このため、メリケンの漢字表記「米利堅」の最初の一文字を取って米国と略称され始める。ただし、日本語でのより一般的な漢字表記は亜米利加であり、これが由来だとする説もある。中国語では「美国」と表記される。「美国」より以前には「花旗国」と呼ばれていた。これはアメリカの国旗(星条旗)を見た中国人が、そのデザインを気に入り「花のように美しい旗の国」と表現したためである。たとえば1902年に上海に支店を出したシティバンクは花旗銀行と呼ばれている。[4]。国名の America は、アメリカ大陸の名、すなわち、イタリア人の探検家アメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名から付けられた。その詳細については、アメリカ州を参照のこと。日本語の「合衆国」という表記の由来や意味については、合衆国を参照のこと。「アメリカ合衆国」の代わりに、より正確な訳であるとして「アメリカ合州国」を使用する人たちや「連邦政府」という呼称があることから「アメリカ合衆国連邦」と呼ばれることもある。イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国の「発見」を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。
フォシュはドイツ軍の攻勢によってマルヌ付近に形成された突起部に対する反転攻勢を企図し、7月に第二次マルヌ会戦が発生した。連合軍による攻撃はこれまでに見ない成功を収め、翌8月には突起部が解消された。この戦闘が終了した2日後にはアミアンの戦いが開始され、600輌以上の戦車と800機の飛行機を使用したこの戦闘で連合軍は全前線において前線突破に成功し、ヒンデンブルクはこの8月8日をドイツ軍にとり最悪の一日と称することになった。9月になるとジョン・パーシングに率いられたアメリカ軍が50万以上の兵力を投入したサン・ミッシェルの戦いが開始された。これに続いてアメリカ軍は10個師団を投入してムーズ・アルゴンヌ攻勢を実施した。ドイツでは人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に達していた。反戦運動は頻繁に発生し、陸軍の士気は低下した。工業生産は1913年に比べて53パーセント落ちていた。ドイツに敗北が切迫しているというニュースはドイツ軍全体に広がった。海軍提督ラインハルト・シェアとルーデンドルフは、艦隊を出撃させて起死回生を図ることとしたが、出撃の情報がキール軍港の水兵まで届くと、水兵の多くは非公式の外出をとった。つまり自殺の企て以外の何ものでもないとしか思えない攻撃に参加することを拒絶したのだった。10月26日にヴィルヘルム2世はルーデンドルフを解任した。しかしながらルーデンドルフは、1918年9月の終わりから、帝国議会のメンバー、特にマティアス・エルツベルガーが率いる与党中道派、リベラル派と社会民主党に権力を委譲していた。ルーデンドルフ自身は伝統主義的保守主義者だったが、彼はドイツを民主化する新しい改革を提起することによって、皇帝の統治を継続することができ、ロシアで見られたような社会主義革命の危険性を減らすと信じた。