「奴隷解放宣言」により、南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。しかし、南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの活動を生み出す土壌となった。南部では現在もなお、南北戦争は「北部による侵略戦争」(The War of Northern Agression:アメリカにおける南北戦争の別名)であったと主張する者もいる。南北戦争については次のような対立軸が考えられる。このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
それは財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナ・テリトリーを購入した事と、メキシコから「独立」したテキサス共和国とカリフォルニア共和国をアメリカ合衆国に加えた事[1]である。このことは、それまで上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れる事を意味した。この時、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州、ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2200万、南部の人口は約900万だったとされる。しかも南部のこの人口は、約400万もいた奴隷の人口を含めての数字である。1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった[2]。
1977年にスイス・ジュネーブの国連議場で、これに先立ってラッセル・ミーンズら「インディアン国際会議」は、満場一致で「“インディアン”という用語を支持する」と決議し、「我々は“アメリカ・インディアン”の名の下に奴隷にされ、“アメリカ・インディアン”の名の下に植民地化された。そして我々は、“アメリカ・インディアン”の名の下に自由を得るつもりである。また我々は自分達をどうとでも呼べるのである。」というコメントを発表している。1995年5月にアメリカ国勢調査局が当該者を対象に行ったアンケートでは、49%が「インディアン」を支持し、37%が「ネイティブ・アメリカン」を支持、3.6%が「他の名前がいい」とし、5%は「無回答」という結果が出ている。また、「インディアン」は差別語ではないと考える人は少なくない。「アメリカン・ヘリテージ英語辞典第4版(The American Heritage Dictionary of the English Language)」には、「“ネイティブ・アメリカン”の承認は、“インディアン”の消滅をもたらさなかった。一度“ブラック”が好まれるようになると、あっという間に“ニグロ”が嫌われたのとは異なり、“インディアン”はアメリカ人の大多数で、決して嫌われることはなかった。」との記述が見られる。
五大湖は上流から順にスペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖の5つの湖からなる。Huron、 Ontario、 Michigan、 Erie、 Superiorの頭文字を並べるとHOMESとなり記憶術として用いられる。他には西から東へ並べた例としてSister Mary Hates Ecumenical OverturesやShe Made Harry Eat Onionsというのがある。 日本では上流から順に頭文字をとり「すみひえお」と覚える人もいる。このほか五大湖・セントローレンス川水系に属する湖として、ヒューロン湖とエリー湖の間にセントクレア湖がある。スペリオル湖とヒューロン湖をセントメアリ川が、ヒューロン湖とセントクレア湖をセントクレア川が、セントクレア湖とエリー湖をデトロイト川が結んでいる。またエリー湖とオンタリオ湖をナイアガラ川がそれぞれ結んでいる。ナイアガラの滝はナイアガラ川にある滝である。ヒューロン湖はしばしばヒューロン湖とジョージア湾に分けて言及される。オンタリオ湖から流れ、大西洋へと注ぐセントローレンス川はオンタリオ湖より東、ケベック州内に入るまでのアメリカとカナダの国境線となっている。