アメリカ合衆国のGDPに対する軍事費の比率は、1901年〜1917年は1%未満で推移していた。第一次世界大戦に参戦して大規模な軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は、1918年は8.0%、1919年は13.9%に増大し、20世紀以後では三番目に大きな比率になった[14]。第一次世界大戦終結後は大規模な軍縮が行われ、GDPに対する軍事費の比率は、1920年〜1921年は2%台、1922年は1%台、1923年〜1931年は1%未満、1932年〜1933年は1%台、1934年〜1935年は1%未満、1936年〜1940年は1%台で推移し[15]、第二次世界大戦以前は平時にはGDPに対する軍事費の比率が小さい国だった。第二次世界大戦への参戦を想定しイギリスとソ連に武器を供給した1941年はGDPに対する軍事費の比率は5.6%、第二次世界大戦中に参戦して20世紀以後では史上最大の軍拡が行われ、GDPに対する軍事費の比率は1942年は17.8%、1943年は37.0%、1944年は37.8%、1945年は37.5%に増大し、20世紀以後では最大の比率になり[16]、著しい軍事偏重体制になり、軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。
南西部のプエブロ諸族やナバホ族は、19世紀初め頃からスペイン人の持ち込んだヒツジの放牧を行うようになった。彼らの家畜数は連邦によって頭数を制限されており、年次ごとのチェックで頭数を超えた家畜は、白人の管理官によって強制的に溺死させられる。カリフォルニアの捕鯨民族マカ族は、1999年5月17日、連邦政府が条約を破って70年間禁止してきたコククジラ漁を、これに伴うポトラッチの祝祭と併せて復活させた。シー・シェパードなど反捕鯨団体からの脅迫や嫌がらせ、州警察による漁師達の逮捕という圧力を受けるなか、2007年9月12日にも、再び捕鯨を行った。彼らはアメリカで唯一捕鯨を条約で保証されている部族であるにもかかわらず、現在、全米各地の関係者でも当事者でもない者たちから批判や訴追を受けている。ロッキー山脈周辺の部族は、松の実を貴重な蛋白源として主食にするものも多い。伝統食文化が破壊された今も、松の実はその味の良さから変わらず人気がある。また、ドングリも主食とされた。かつては年に一度、部族を挙げてドングリ採集に出かける際には村が無人になった。ドングリは保存小屋に蓄えられ、粉に挽いてパンに加工して食べた。
1972年、最高裁判所はこの訴えに対し、満場一致でブライアン兄弟の勝訴とした。この判決は1953年に米国議会が認めた、ミネソタを含む6つの州での保留地での部族主権を基にしており、この部族の主権を確定した「ブライアン裁判」は、その後のインディアン権利問題すべてに影響する重要な判例(市民法280条)となった。これはのちに、インディアン・カジノ設立の法的根拠となり、その隆盛につながった。リチャード・ニクソンは、こうしたインディアン達の権利回復要求交渉に対し、まともに耳を傾け取り組んだ、それまでに例を見ない大統領だった。「レッド・パワー運動」とニクソン大統領とは切り離して語れない。ニクソンは1954年からのBIAの部族解体方針を打ち切り、メノミニー族、ピクォート族の復活を認めている。ニクソン大統領が「ウォーターゲート事件」で失脚したことは、世評はどうあれ「インディアンという民族」にとっては大きな痛手だった。1977年は、ニクソン政権の実行した宥和政策を次々に撤回したカーター政権によって、ニクソン以前の「インディアン根絶政策」の復活・総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。
ヨーロッパからの入植が見られる以前からトロント周辺地域には紀元前1500年前にイロコワの部族から土地を占領した先住民ヒューロン族が定住していた。「トロント」の地名は、ヒューロン族の言葉で「人が集まる場所」を意味する言葉に由来するとされる説が一時有名であったが、本来、言語学的にはモホーク族の言葉で「水の中に木が立っている場所」を意味する「tkaronto」を由来とし、フランス人探検家や地図制作者を介してトロントになったとされる[11]。地勢的にはトロント北部のシムコー湖にヒューロン族が魚を囲い込むために苗木を植えたオリリア市の辺りを起源とする。当時、オンタリオ湖からヒューロン湖の陸路輸送ルートであったこの辺りでは広く使われていた地名であった。1750年にフランス人商人によって交易所「フォート・ルイユ」(Fort Rouillé[12])が設立されたが、1759年には使われなくなった。アメリカ独立戦争の際、英国王党派の流入が多く見られ、未入植の地であったオンタリオ湖岸の北部への入植が進んだ。1787年、イギリスはオンタリオ湖北部の土地を所有するミシサガ族と交渉し、わずかな資金で購入することに成功した[13]。