アタカパ族やカランカワ族は、敵対者や指導者の心臓や肉を、パワーを得るものとして宗教的に食した。このため、他部族やヨーロッパ人から「人食い人種」と誤解された。大西洋岸からミシシッピー沿岸にかけては、約二千年前に「マウンド・ビルダー」と呼ばれた部族群が、数100メートルもある動物を象った、無数の土塁・塚を建造している。オハイオ州のサーペント・マウンド(大蛇の墳丘)はその一つである。その直系であるナチェズ族は、18世紀にフランス人に文明を破壊されるまで、インカ帝国やマヤ文明のように太陽神を頂き、都市を築いてピラミッド型の神殿をいくつも建造していた。神官と僧侶からなる社会階級を持っていたのは北米でナチェズ族だけである。1889年1月1日に、日食があり、大地が闇に覆われた。連邦政府による強制移住政策で飢餓状態にあったインディアン達は「世界の終わりが来た」として恐れ戦いた。この全部族的な終末感の中で啓示を受けた、ネバダ州のパイユート族の預言者ウォボカが教祖となって始まった信仰が、「幽霊踊り教(ゴースト・ダンス教)」である。
テキサス州のカド族保留地(カドハダチョ連邦)では、ゴースト・ダンスは弾圧の対象とならず、現在まで続く年中行事である。ただ、踊りの作法などが違っており、厳密に上記の儀式と同じものかは分からない。インディアンは自らの宗教を実践するのに連邦の許可証を必要とする、アメリカ合衆国唯一の民族集団である。「鷲の羽法(Eagle feather law)」は、連邦が承認する部族を祖先に持つことが証明可能な個人だけが、ハクトウワシとイヌワシの羽を宗教的または霊的に使用する権限を与えられることを規定している。インディアンと非インディアンの両者とも、法が人種差別的で部族の主権を侵害しているとして、たびたびこの「鷲の羽法」の価値と妥当性を争ってきた。インディアンが非インディアンに鷲の羽を与えることは昔から行われてきた慣習であり、同法はこれを禁じているが、形骸化している。インディアンにとって、煙草の葉は神聖な清めの神具であり、またパイプも単なる喫煙具ではなく、どちらもすべての儀式に欠かせない特別な存在である。どんな部族でも儀式の際には、セージや杉の葉などと合わせ、煙草の葉による清めが行われ、「ピースパイプ」または「メディスンパイプ」と呼ばれる聖なるパイプを用いた喫煙が行われる。パイプは天上の精霊との通信役を担い、タバコの煙はその媒体の役目をする。どの部族もたいてい、父祖から伝わる神聖なパイプを保持している。
BCEプレイスはトロントの市街地にある複合オフィスビルで、ベイ・ウェリントン・タワーとTDカナダ・トラスト・タワーの2つの高層ビルで構成され、6階建てのアレン・ランバート・ギャラリアとつながっている。ホッケーの殿堂もBCEプレイスにある。アレン・ランバート・ギャラリアはしばしば「商業のクリスタル大聖堂」(crystal cathedral of commerce)と表され、スペイン人建築家のサンティアゴ・カラトラヴァによってデザインされた。トロントの金融街で最も写真が撮られる場所のひとつで、テレビや映画製作でも背景としてよく使われる。コマースコートは4つのオフィスビル郡で金融街のキング通りとベイ通りに位置する。最初のビルは現在のコマースコート・ノースで、1930年にCIBCの本社として現在の敷地に先駆けて建設され、当時、カナダの中でも華麗な本社ビルのひとつとされた。ピアソン・ダーリング建設事務所の設計による34階建ての高層ビルで、1962年までは英連邦で最も高いビルであった。1972年に残りの3つのビル、コマースコート・ウエスト(57階建て)、コマースコート・イースト(14階建て)、コマースコート・サウス(5階建て)が完成した。イオ・ミン・ペイの設計であるコマースコート・ウエストは1972-76年までカナダで最も高い高層ビル(239m)であった。トロント・ドミニオン・センターはミース・ファン・デル・ローエによる設計で、トロント・ドミニオン・バンク・タワー(223m)を筆頭に、人目を引く黒い近代的な6つの高層ビルで構成された複合オフィスビルである。
独立宣言には『すべての人民は法のもとに平等である』と謳われており、全ての国民は国家との法的権利義務において等しく扱われ、人種、信条、性別によって不当な扱いを受けないという原則を示している。この原則はアメリカ合衆国憲法修正第14条に端的に現れている。しかし実際のところ、女性、黒人奴隷および先住民が真の法の下の平等を勝ち取ったのは建国から200年近くも後のことである。アメリカ合衆国で女性参政権が認められたのは1920年であり、アフリカ系アメリカ人と先住民族が法のもとに他の人種と同等の権利を保証されるようになるまでには20世紀半ばの公民権運動の勃興を待たねばならなかった。19世紀後半以降にアメリカ合衆国への移民が増加するに従い、アングロ・サクソン系以外の移民を制限するための法律が連邦議会で次々に可決された。1882年に中国人(当時の国名は清)の移民を禁止する中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)が制定され、1924年には日本で「排日移民法」として知られているジョンソン・リード移民法が制定されて、新たに移民できる外国人の数を合衆国内にすでに居住している同じ人種の人口によって決めることで実質的にアジアと東欧および南欧からの移民を制限した。連邦レベルで移民の人種的制限が完全に撤廃されたのは1965年のハート・セラー移民帰化法においてである。第二次世界大戦が勃発すると、米国西海岸に居住する日系アメリカ人は米国の市民権を持つアメリカ人であるにもかかわらず「敵性外国人」として市民権を剥奪され、強制収容所に送られた(詳しくは日系人の強制収容を参照)。また同じ理由から、アメリカの影響下にあったラテンアメリカ13カ国の日系人もアメリカに強制連行された。この一連の強制収容により多くの日系人が財産や生活の基盤を失い、戦後7年が過ぎた1952年の移民国籍法の施行まで市民権は回復されなかった。