また、狩猟と交易を生業とした平原インディアンにとって「土地」は「不動産」ではなく、誰のものでもなかった。彼らは獲物を追って常に移動するものであり、ある部族をある土地から追い出したとしても、それは恒久的なものではなく、また和平を結べば共有できるものだった。白人が彼らを一区画に閉じ込め、移動を禁じるという「保留地」の考えは、平原インディアンにとってまったく理解できないものだった。血生臭いイメージでしばしば語られる平原インディアンの「部族間戦争」だが、実際にはほとんどの場合、馬をめぐっての小競り合いであり、その中で彼らが最も栄誉としたものは、「クー・スティック」と呼ばれる「?」形をした杖で、相手部族員を何回「叩く(フランス語でcoup=クー)」か、だった。こういった「スポーツとしての戦」は、ニューギニアやアフリカの原住民が今もレクリエーションとして行っているものである。見事「クー」を重ねたものは部族で祝福を受け、その数ごとに鷲の羽根を追加した見事な「羽根冠」となって、偉大な戦士を飾ったのである。現在では、「クー」に代わって部族に対する貢献が冠を飾る羽根となっている。男子が装う羽根冠や化粧は、本来儀式での正装であって、天上の大精霊にしっかりと自分を見知ってもらうためのものであり、戦いのためのものではない。羽根冠や化粧を白人が「ウォー・ボンネット」とか「ウォー・ペイント」と呼ぶのは誤りである。
カナダ統計局による最新の国勢調査の統計によると2006年の人口は250万3、281人で2001-2006年の人口増加率は0.9%であった。国際連合開発計画によると、トロントは国外で生まれた移民の割合がマイアミに次いで世界で2番目に多い都市となっており、マイアミでは移民の出生地の多くはキューバや他の南米諸国であるのに対し、トロントはひとつの国や文化が圧倒的な割合を占めることがなく多様性に富んでいる。トロント都市圏の人種別構成は2006年国勢調査では下記の通り。( )内はトロント市内トロント市の最も大きな民族グループはヨーロッパ系で全人口の約半数を占める。その内訳の多くはイギリス人、スコットランド人、アイルランド人、イタリア人、フランス人である。人口の約半数は、白人以外であり、インド系、スリランカ系、パキスタン系などの南アジア系が68万人と最大勢力となっている。中国系人口は48万人に達し、北米ではサンフランシスコ・ロサンゼルス・ニューヨーク・バンクーバーと並ぶ一大拠点となっている。カナダの都市の中では黒人も多く、特にジャマイカなどの西インド諸島出身者が多い。ベトナム系やフィリピン系などの東南アジア系も多く、その他、世界各地の移民で構成されている。現在でも、毎年のようにアジアを中心に世界中から多くの移民を受け入れ、数年後には白人は少数派になると推測されている。この多様性が多くのエスニックタウンを生んでおり、リトル・イタリーやリトル・ジャマイカ、リトル・インディア、中華街、コリアタウン、グリークタウン、ポルトガル・ビレッジ、ケンジントンマーケットなど多岐にわたる。
アッパーおよびローワー・カナダは米英戦争(1812年戦争)の主戦場となった。カナダ防衛は英国系北アメリカ人に一体感をもたらした。1815年より英国とアイルランドからの大規模な移民が始まっている。19世紀の初めには材木業が毛皮貿易よりも重要になった。責任政府を求める1837年反乱が起こり、その後のダールム報告では責任政府とフランス系カナダ人の英国文化への同化が勧告された[11]。1840年憲法法により、アッパーおよびローワー・カナダはカナダ連合に合併した。議会においてフランス系および英国系カナダ人はともにフランス系の権利の復活のために努力している。1849年に英領北アメリカ植民地全土に責任政府が設置された。[12][13]1846年に英国と米国によるオレゴン条約が結ばれオレゴン境界紛争が終結。これによって、カナダは北緯49度線に沿って西へ境界を広げ、バンクーバー・アイランド植民地(1849年)、そして、ブリティッシュコロンビア植民地(1858年)への道が開かれた。カナダはルパート・ランドと北極圏地域への一連の西部探検を行っている。高い出生率によってカナダの人口は急増した。一方で、英国からの移入は、米国への移出によって相殺されていた。特にフランス系カナダ人がニューイングランドへ移民している。
先住民族はしばしばアメリカのロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、アメリカの地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークのタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。しかし先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。1960年代に入り、公民権運動を通して人種差別に対する国民の意識が高まり、心霊主義や環境主義に対する関心が高まってようやく、先住民族の文化が再評価されるようになった。アメリカの国民は先住民の他、世界各国からの移民とその子孫によって構成されているため、都市部では世界各国の料理やそれらをアメリカ風にアレンジしたものを気軽に楽しむことが可能である。イタリア料理や中華料理、メキシコ料理(テクス・メクス料理)などが非常にポピュラーなものとして日常的に楽しまれている他、1980年代以降は寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が都市部を中心に人気を博しており、日本料理のレストランで食すことができるだけでなく、スーパーマーケットなどで豆腐や醤油、麺類などの食材を調達することも可能である。