エリー湖に流れ込む主な川は、ヒューロン湖とセントクレア湖を源泉とするデトロイト川であり、流れ出た水はナイアガラ川とナイアガラの滝を経て、オンタリオ湖に流れ込む。エリー湖から下流への水運は、五大湖を結ぶグレートレーク・ウォターウェイ (Great Lakes Waterway) の一部であるウェランド運河 (Welland Canal) が使用される。エリー湖に流入、流出する他の主な川は、グランド川 (Grand River)、レイスン川 (River Raisin)、マウミー川 (Maumee River)、カヤホガ川 (Cuyahoga River)である。エリー湖の南にオハイオ州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州が位置しており、西にはミシガン州、そして北にはオンタリオ州がある。カナダ最南端のポイントペレー国立公園は、湖にカナダ側から突き出した半島に位置している。エリー湖の東部分のいくつかの島には住人がおり、ペレー島を除き、オハイオ州に帰属している。ニューヨーク州バッファロー市、ペンシルベニア州エリー市、オハイオ州トリード市、それにオハイオ州クリーブランド市の4つの都市が湖岸にある。エリー湖は、五大湖の中で最後に発見された湖であり、オンタリオ湖から流れ出る川をたどって、ヒューロン湖に荷物を運んでいたフランス人の探検隊によって発見された。
1977年は、ニクソン政権の実行した宥和政策を次々に撤回したカーター政権によって、ニクソン以前の「インディアン根絶政策」の復活・総括が図られ、アメリカ上下両院議会で「保留地の解消」や、「インディアンの自治権剥奪」など多数の法案が相次いで上程され、AIMのみならず、全米のインディアン部族の運動団体がワシントンDCに集まり、最大規模の抗議行動が行われた年となった。この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。アメリカでは近年になって「人種差別である」とインディアン団体の抗議を受けるまで、大学や高校などがスポーツチームのマスコットにインディアンのキャラクターを採用することも珍しくなかった。プロスポーツ界でのインディアンをテーマにしたチーム名の使用は広く知られており、例えばクリーブランド・インディアンズのワフー酋長(Chief Wahoo)や、ワシントン・レッドスキンズなどがあるが、こういった「侮辱的なカリカチュア」は現在、インディアン権利団体にとって最も活発な抗議対象のひとつになっている。
トロントには一流のプロスポーツチームが本拠を構えており、トロント・メープルリーフス(NHL)やトロント・ブルージェイズ(MLB)、トロント・ラプターズ(NBA)、トロント・アルゴノーツ(CFL)、トロントFC(MLS)などがある。かつて世界で最も高い建物であったCNタワーは、トロントの遠景を象徴する建築物になっている。文化面でも国際的に重要な役割を果たしており、世界クラスの博物館や美術館、劇場、フェスティバルなどが多くある。カナダに入ってきた移民を多く受け入れていることを反映して、トロントは多文化的かつ人口構成も国際色豊かである。犯罪発生率は低く、街は清潔で、人々の生活水準も高いため、世界で住みやすい都市の一つとして各種機関によって毎年の様にランクされている [5][6]。その反面、2006年、トロントはカナダ国内で最も生活費が高い都市にランクされた[7]。2007年にイギリスの経済雑誌によってトロントはシカゴに次いで北米内で2番目に将来性のある大都市として評価された[8][9]。2008年には、グローバリゼーションと世界都市の研究グループおよびネットワーク(GaWC)により、ソウルやマドリードなどと同クラスの第1級世界都市に選ばれている[10]。
しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に山岳部隊を含む6個師団を援軍として派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日に独墺軍はトルミノ付近において突破作戦を敢行、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。この敗北を真摯に受け止めたイタリア軍は新たな司令官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、1918年夏のピアーヴェ川の戦いではオーストリア軍の進撃を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、ガリツィアでは勝利を得たものの、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。開戦前の予測は外れ、ロシアの軍事力はドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日にワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。