2008年1月15日、ローマで開かれていた第35回イエズス会総会において前述のコルヴェンバッハ総長の退任に伴い、日本の上智大学に学び同校において教鞭を執ったこともあるスペイン人会士アドルフォ・ニコラス神父を新総長に選出。広島での活動が有名で上智大学で教鞭もとっていた28代ペドロ・アルペ総長に続く、日本に縁の深い人物の総長就任となった。イエズス会員の養成は、霊的養成、知的養成、司牧活動(世界のいずれの場所でも働ける修道者としての)養成の三つの分野からなる。イグナチオ・ロヨラはルネサンス人であり、会員たちにどんな仕事でもすぐにできるようあらゆる分野での準備をしておくことを求めた。司祭養成には(当該人物の学歴にもよるが)通常10年から12年かかる。養成にはいくつかの段階があるが、養成に先立っておかれるのが志願期という時期である。志願期にはその人物が霊的指導を受けながらイエズス会員にふさわしいかどうかが慎重に調べられる。志願期を終えた後でようやく養成の正式な第一段階である修練期に入る。二年間の修練期では修練院(修道院)で暮らしながら、霊操を受け、イエズス会の歴史や霊性について学ぶ。同時にイエズス会の使徒職を実際に手伝うことで体験する。修練が終わると、初誓願を立てる。誓願とはカトリック教会の修道者が立てる従順、清貧、貞潔の三つの誓いのことである。誓願を立てた後で神学の勉強を継続して司祭職を目指すか、修道士になるか選ぶことになる。修道士を目指すものはそれぞれの希望や適性に応じて専門性の高い勉学をおこなう場合も多い。
1916年6月、ロシア軍は東ガリツィアにおいてブルシーロフ攻勢を実施し、オーストリア軍に大損害を負わせた。しかし勝利した戦区の指揮官を支援することに他の将軍が躊躇したために戦果を拡大させることはできなかった。ブルシーロフ攻勢の成功を見て、8月にルーマニアが連合国側に立って参戦した。しかし弱体なルーマニア軍の攻勢は独墺軍によって短期間のうちに撃破され、中央同盟国の多国籍軍による反攻で主要拠点を喪失する大敗を喫した。初めはルーマニア軍を懸命に支援していたロシア軍も最終的にはモルダビアの防衛に徹し、12月6日にブカレストが中央同盟軍によって攻め落とされた。セルビアは1914年8月から12月における3回のオーストリア軍の侵攻を防いでいた。1915年9月、ブルガリアが中央同盟国側に立った参戦を確約したことで、中央同盟国はセルビアへの攻勢を計画した。10月、ドイツ軍がドナウ川を渡河しベオグラードに突入、ブルガリア軍が南部国境を突破した。セルビア軍と国王はアルバニアとギリシアへの逃亡を余儀なくされた。セルビア軍の敗北の末、英仏軍はテッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコールフ島を占拠して、新たに戦線を開げた。これはテッサロニキ戦線と呼ばれていた。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月〜6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが連合国側に立って参戦し、連合国側が有利となった。
1916年、スペイン国王アルフォンソ13世から勲章を授与される。1918年、開発大臣就任の打診を受けたが、辞退した。1920年、スペイン王立アカデミーの一員となり、パリの科学アカデミーの力学部門の一員にも選ばれた。1922年、パリ大学から名誉博士号を授与された。トーレスは1936年12月18日、スペイン内戦真っ最中のマドリードで死去。84歳の誕生日の10日前であった。1902年、トーレスはマドリードとパリの科学アカデミーに新たな飛行船開発プロジェクトを提案した。これは、内部に柔軟なケーブルを張ることで船体の剛性を強化し、大型のゴンドラの吊り下げに耐えられるようにするものであった。
個人の写真作品>滝−Yahoo!カテゴリ堰(せき)は、水をせき止める目的で河川や湖沼などに設けられる構造物。せき止めによって水位を上げることによって、上流側に水を貯留したり、用水路などへの取水を容易にしたり、計画的な分流を行ったり、また下流側からの海水の逆流を防止(潮止めという)して塩害を防ぐなどの役割を持っている。