これまで、条約交渉の窓口であるはずのBIA(インディアン管理局)は条約を無視し、ドーズ法を盾に保留地を削減し、インディアンにアメリカ文化を受容させるべく、インディアン寄宿学校などといった施政で強制的に同化政策を押し進めてきた。1887年に1億3800万エーカーあったインディアンの保留地(Reservation)は、次々にBIAによって「保留(Reserve)を解消」されて、現在では総計5500万エーカーまで削減されてしまった。また、20世紀初頭から連邦政府は「血が薄まった」ことを理由に多数の部族を絶滅認定し、条約交渉を打ち切る「絶滅政策」を採ってきた。こうして1954年から1966年までの間に、全米で100以上の部族が「絶滅部族」として「解散」させられた。連邦政府・BIAがあるインディアン部族を「絶滅指定」すると、おもに次のような事態となる。この部族認定解除の方針に対し、1960年代からレッド・パワーとともに散り散りになった部族員を再結集して、連邦に部族の再認定を迫る動きが盛んになった。ニクソン政権下でひとまずこの部族解消方針は打ち切られ、メノミニー族、ピクォート族が復活した。が、ニクソン失脚後の議会は再び「絶滅政策」を打ち出し、これ以外の部族は現在も、アメリカ内務省を相手に頻繁な訴訟を伴う再認定交渉を強いられている。
アメリカ人の歴史では1890年はフロンティアが消滅し、西部が勝ち取られた輝かしい年とされているが、インディアンにしてみれば1890年は、アメリカインディアンがひとまず征服された年なのである。「アメリカのフロンティア」が消滅したのち、白人はインディアン問題を処理すべく、その同化に注力し始める。豪州のアボリジニや日本のアイヌ、極北のエスキモー等と同じく、支配民族による同化政策は、北米においても19世紀末から組織的に行われた。代表的なものは、ペンシルベニア州カーライルの「カーライルインディアン工業学校」の創始者であり、校長を務めたリチャード・ヘンリー・プラットによる、「人間を救うためにインディアン(野蛮人)を殺せ」(Kill the Indian to save the Man)という標語に代表される、インディアンの子女を親元から引き離し、「インディアン寄宿学校」に送ってインディアンの文化や言語を禁じ、軍事教練を基本にした指導による、キリスト教や西洋文化の強制学習である。同化政策によって言語をはじめとする地域文化が失われ、生き延びた者も混血化が進み純粋な部族は残り少ない。こうした「インディアン寄宿学校」の学科に経営学や経済学といったものは皆無で、教えられるのは靴の修繕や繕い物の手工業などの技術のみであった。生徒たちが部族語を奪われ、卒業して保留地に戻っても、そこには靴屋も仕立て屋もなく、学んだ技術は何の役にも立たず、失業者として白人の町へ働きに出ざるを得なくなった。一世代前までのインディアンたちは、こうした同化政策の強制教育で部族語を禁じられ、学校で部族語を話せば、「汚い言葉を話した」として石鹸で口をゆすがされるなどの罰を白人教師から受けた。こうした経験から、英語しか話せない人が多い。
1808年5月、ナポレオンはスペイン・ブルボン朝の内紛に介入し、ナポリ王に就けていた兄ジョゼフを今度はスペイン王に就けた。しかしこれに対するスペインの反発は激しく、半島戦争(1808年 - 1814年)が起こり、蜂起した民衆の伏兵による抵抗にフランス軍は苦戦する(「ゲリラ」という語はこのとき生まれた)。ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。ナポレオンが「スペインの潰瘍が私を滅ぼした」と語ったとおり、このスペインでの戦役は、ナポレオンの栄光のターニング・ポイントであった。スペインの背後には当然のことながらイギリスもついた。7月、スペイン軍・ゲリラ連合軍の前にデュポン将軍率いるフランス軍が降伏。皇帝に即位して以来ヨーロッパ全土を支配下に入れてきたナポレオンの陸上での最初の敗北だった。ナポレオンがスペインで苦戦しているのを見たオーストリアは、1809年、ナポレオンに対して再び起ち上がり、プロイセンは参加しなかったもののイギリスと組んで第五次対仏大同盟を結成する。4月のエックミュールの戦いではナポレオンが勝利し、5月には2度目のウィーン進攻を果たすがアスペルン・エスリンクの戦いでナポレオンはオーストリア軍に敗れた。しかし続く7月のヴァグラムの戦いでは双方合わせて30万人以上の兵が激突、両軍あわせて5万人にのぼる死傷者をだしながら辛くもナポレオンが勝利した。そのままシェーンブルンの和約を結んでオーストリアの領土を削り、第五次対仏大同盟は消滅した。この和約の後、皇后ジョゼフィーヌを後嗣を生めないと言う理由で離別して、1810年にオーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚した。この婚約は当初ロシア皇女が候補に挙がっていたが、ロシア側の反対によって消滅。オーストリア皇女に決定したのは、オーストリア宰相メッテルニヒの裁定によるものであった。そして1811年に王子ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンはこの乳児をローマ王の地位に就けた。
南部諸州戦線は、ショーニー族の指導者テカムセの扇動によりアメリカ軍に反抗することを決めたクリーク族インディアンの戦い(クリーク戦争)と、休戦条約の頃にメキシコ湾沿岸からのイギリス軍による侵攻が含まれる。1814年3月、アンドリュー・ジャクソンはテネシー州民兵、チェロキー族戦士およびアメリカ陸軍正規兵を率いて南部に向かい、クリーク族酋長メナワに率いられるインディアンと戦った。3月26日、ジャクソンとジョン・カフィー将軍はホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族を打ち破り、クリーク族1、000名の中800名を殺したのに対し、約2、000名のアメリカ軍・チェロキー族連合軍は40名の戦死と154名の負傷に留まった。ジャクソン軍は生き残ったクリーク族を追跡し降伏に追い込んだ。インディアンはイギリス側に付き、イギリスも支援していたので、多くの歴史家がクリーク戦争を米英戦争の一部と見なしている。イギリス軍は9月のニューヨーク州とメリーランド州での攻勢でも捗捗しい戦果を上げられずにいたので、視点を南に向けて10、000名以上の部隊を載せた艦隊をメキシコ湾に派遣した。ジャクソンは更に西に動いて、1814年の暮れからのイギリス軍の侵攻に備えた。