1990年代に入ると、マサチューセッツやオレゴンをはじめ各地の州議会で「賭博は教育・道徳的に許されないものである」との理由からインディアン・カジノの運営禁止決議が相次いでいる。しかし、インディアン・カジノの収入の多くは「没収された土地の買い戻し」や「道路の舗装・整備」、「部族の医療や教育、居住」などの資金など、インディアンの福利厚生に使われているものであり、州とインディアン部族のカジノを巡る係争は年次拡大している。そもそもインディアンの衣食住の権利を詐取してきた白人が「道徳」を理由にカジノを禁止するのは理不尽ではないかとの内外の批判も多く、またインディアン・カジノが自治体にもたらす税収は莫大なものであり、インディアンだけでなく、非インディアンの雇用をも生み出す一大事業ともなっていて、これら州によるカジノ禁止決定に対する抗議デモの参加者には失業した白人カジノ従業員の姿も多い。一方、カジノ経営をする部族の中には十分な収入が得られないものもあり、人口の集積地から近い、他のカジノとの競争が少ないなどの条件がそろわなければカジノの経営による利益は薄く、カジノの設立や運営を仲介する白人企業に支払う手数料も高額にのぼるなど、ギャンブルの経済効果を疑問視する声もある。ホピ族のようにカジノ事業を敬遠する部族もいる。ナバホ族は2度の住民投票でカジノ建設を否決してきた。ただ、ホピ族は伝統的に自給自足度の高い定住農耕民であり、ナバホ族は有名な観光地を持っており、カジノに頼らざるを得ない弱小の部族に比べ、幾分カジノに対する温度差を生んでいる面がある。またオジブワ族のホワイトアース保留地の部族議長のように、腐敗した部族政府が白人賭博代理業者と癒着して、連邦に逮捕されるなどの悪例もしばしば見られている。オクラホマのワイアンドット族(ヒューロン族)は、カンザスのワイアンドット族から、オクラホマの彼らの保留地へのカジノ建設を提案され苦慮している。カンザス・ワイアンドットは連邦認定を解除された「絶滅部族」なので保留地を没収されており、オクラホマ・ワイアンドット族の狭い保留地でのカジノ建設可能地といえば、部族伝統の墓地しかないからである。
詳細はカナダの地理 (Geography of Canada) を参照北アメリカ大陸の北半分を占める。南および西はアメリカ合衆国と接する。東は大西洋、デイビス海峡、西は太平洋、北はボーフォート海、北極海に面する。ロシアに次いで世界で2番目に面積が大きい国であり、北アメリカ大陸の約41%を占めている。人口密度は3.2人/km2とかなり少ないが、国土の多くは北極圏内にあるため人の住める地域も面積に比して極端に少ない。
カジノ事業は現代を生きるインディアン部族にとっての主要な経済収入のひとつで、部族が運営する「インディアン・カジノ」は、「現代のバッファロー」ともといわれ、インディアンの重要な産業となっている。保留地が狭い不毛の地である部族には、カジノが唯一の収入源である場合も多い。1979年12月14日、セミノール族はフロリダ州ハリウッドの保留地で、起死回生をかけて高額賭率のビンゴ場を開設した。これに対し、フロリダ州は即座にこれを停止させようとし、部族と州はカジノ経営の是非を巡って法廷闘争となった。この歴史的な係争は「フロリダ・セミノール族対バターワース」裁判と呼ばれている。1981年、連邦最高裁判所はセミノール族のビンゴ場経営の権利を支持する判決を下した。
イエズス会は当初から世界各地での宣教活動を重視し、優秀な宣教師たちを積極的に派遣した。もっとも有名な宣教師はフランシスコ・ザビエルである。彼は西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしいというポルトガル王の要請にしたがって1541年にインドのゴアへ赴いた(ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事した。彼は日本人へ精神的影響を与えるために中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去した。日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。日本人初のイエズス会士は鹿児島出身のベルナルドで、彼は日本人初のヨーロッパ留学生としてポルトガルに渡り、1553年にリスボンで入会して修道士となった。1561年には琵琶法師であったロレンソ了斎が入会。有名な天正遣欧少年使節を計画したのはイエズス会の東洋管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであったが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目をむけた豊臣秀吉は1587年にこれを取り上げて直轄領とした。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に徳川幕府による迫害によって宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、イエズス会は日本での活動を終えた。