詳細はカナダの宗教 (Religion in Canada) を参照2001年の国勢調査によると、キリスト教徒が多数(77%)を占める。内訳はカトリックが43.6%、プロテスタントが29.2%、正教会・東方諸教会が1.6%。ムスリムが2%、ユダヤ教徒が1.1%、仏教徒が1.0%、ヒンドゥー教徒が1.0%、シーク教徒が0.9%。無宗教は16.2%である。
1603年に到着したフランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランは、1605年に初めてのヨーロッパ人定住地をポートロイヤルに築き、1608年にはケベック をつくっている。これらは後にそれぞれアカディアとカナダの首都となった。 ヌーベルフランスの植民地の中ではカナダ人(Canadiens:フランス系カナダ人)はセント・ローレンス川流域に、アカディア人は現在の沿岸諸州に集中的に居住している。フランス人の毛皮商人とカトリック宣教師たちは五大湖、ハドソン湾そしてミシシッピー川流域からルイジアナを探検した。毛皮貿易路の支配を巡ってフランスとイロコイ族の戦争が起こっている。イングランドは1610年にニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部に13植民地を築いた。1689年と1763年に一連の北米植民地戦争が起こり、その結果、ユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアが英国の支配下となり、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)のパリ条約でカナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。1763年宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加えた。これはまたフランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限もしている。1769年にセント・ジョーンズ・アイランド(現在のプリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となった。ケベックでの紛争を避けるため、1774年にケベック法が制定され、ケベックの領域が五大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてフランス語とカトリック信仰、フランス民法が許された。これは13植民地の多くの住民を怒らせることになり、アメリカ独立への動因となってしまっている[9]。 1783年のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、五大湖南部がアメリカへ割譲された。およそ5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている[10]。一部の王党派のために沿岸諸州のニューブランズウィックがノバスコシアから分割された。ケベックの英語話者王党派のために1791年法が制定され、フランス話圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダに分割され、各々が独自の議会を持った。
この抗議行動のなかで彼らが「最大の民族的危機のひとつ」として掲げたのが、「インディアンという名称の剥奪」だった。飢えたプリマス植民地の移民たちに食糧を与えて保護し、農業を教え、生存の手段を与えた「インディアン」も、リトルビッグホーンの戦いでカスター中佐と第7騎兵隊を破った栄光ある「インディアン」も、「アメリカ先住民(ネイティブ・アメリカン)」という名称へのすり替えによってその存在が無視され、「保留地」や「自治権」ともどもアメリカの歴史から抹消されていくという、民族浄化に対する危機である。こういった背景から同年、インディアン代表団は国連で「我々の民族名はインディアンである」と決議表明を行っている。アメリカでは近年になって「人種差別である」とインディアン団体の抗議を受けるまで、大学や高校などがスポーツチームのマスコットにインディアンのキャラクターを採用することも珍しくなかった。プロスポーツ界でのインディアンをテーマにしたチーム名の使用は広く知られており、例えばクリーブランド・インディアンズのワフー酋長(Chief Wahoo)や、ワシントン・レッドスキンズなどがあるが、こういった「侮辱的なカリカチュア」は現在、インディアン権利団体にとって最も活発な抗議対象のひとつになっている。最も初期の事例では、1970年の「スタンフォード大学でのマスコット抗議」がある。スタンフォード大学のフットボールチーム「インディアンズ」の、でたらめな衣装や踊りで応援するインディアン・マスコットの廃止を、同大学のインディアン学生達が申し入れたもので、リチャード・ライマン総長がこれを受け入れたために、白人の大学関係者側からは「なぜ廃止するんだ」と轟々たる非難が集まる論争となり、以後、こういった冒涜的なスポーツ・マスコットに対する廃止要求は全米に広がっていく嚆矢となった。ライマン総長はのちにこう語っている。「ブルドッグか虎のように、特定の少数民族すべてをマスコットにする権利が、我々のどこにあるだろうか?」
フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多い(インディアン戦争)。部族の利害を十分考慮した上で参戦したとしても、結果として敗者の側につくことになった部族の運命は過酷であった。白人社会の大規模農園開拓で土地や水源を奪われたり、バッファローなどの自然資源を巡って度々対立した記録が残されている。インディアンを殲滅する目的で、白人が病原菌の付着した毛布などを贈って故意に伝染病に感染させようとした事実が歴史に記録されている。ヨーロッパ人がアメリカ大陸にやってくるようになった頃、1890年12月ウンデッド・ニーの虐殺により、白人によるインディアン戦争は終結した。最終的には推定1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。