1910年、トーレスはチェス指すオートマタを作り始めた。El Ajedrecista(The Chessplayer の意)と名づけられた人形は、盤の下にある電磁石でキングを自動的に動かすことができ、キングを詰ませようとする相手の手に対して逃げる手を打つことができた。ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの「トルコ人」とは異なり、中に人は入っていない。トーレスがロープウェイの実験を始めたのは非常に早く、生まれ故郷の Molledo に住んでいたころであった。1887年、約40メートルの窪地をまたぐ最初のロープウェイを建設している。全長は約200メートルで、単座のゴンドラを2頭の牛で引いた。この実験に基づいて彼は最初の特許(複数のケーブルを使ったロープウェイにより、貨物だけでなく人間の輸送が可能な安定した輸送手段)を申請した。後に電動機を使ったロープウェイ cableway of the Río León を建設したが、貨物輸送専用として使われていた。1890年、スイスにロープウェイ建設を提案。スイスはこれに大いに興味を持ったが、そのプロジェクトは採用されなかった。1907年、トーレスは人間の輸送に適した最初のロープウェイをサン・セバスティアンの Monte Ulía に建設した。安全性は複数のケーブルを巧妙に利用することで確保された。結果として非常に堅牢な設計となり、サポートケーブルのうちの1本が切れても耐えることができた。プロジェクト実行はビルバオの工学研究会によるもので、同会はシャモニーやリオデジャネイロ市でもロープウェイ建設に成功した。最も有名な例として、カナダのナイアガラフォールズに建設されたスパニッシュ・エアロカーがあるが、科学的観点では最重要というわけではない。1914年から1916年に建設され、全長580メートルのケーブルがナイアガラの滝のカナダ側の滝つぼを跨いだ形で設置された。建設はスペイン資本によるスペイン企業が行い、最初から最後までスペインのプロジェクトとして行われた。乗り場の入口に設置された青銅の飾り板には Spanish aerial ferry of the Niagara. Leonardo Quevedo Torres (1852?1936) と記されている。1916年2月15日に試験運行が開始され、1916年8月8日に正式運行となり、その翌日から観光客の利用が開始された。その際に若干の修正が施され、以来今日まで大きな問題も無く観光客に雄大な景色を提供し続けている[1]。1903年、トーレスはパリの科学アカデミーで、Telekino のデモンストレーションを披露した。同年、フランス、スペイン、イギリス、アメリカ合衆国でその特許を申請している。Telekino は電磁波の指令を受信して実行するロボットである。これは世界初のラジオコントロールであり、遠隔制御としても先駆的であった。1906年、スペイン国王も含めた大観衆の前でこの発明を披露した。後にこの発明を発射物(あるいは魚雷)に応用しようとしたが、資金不足で中止した。[2]
水量は春から初夏のピークシーズンでおよそ毎秒5、720 m?になる。夏は毎秒2、832 m?で、90%はカナダ滝に流れ込むが、水力発電施設に一部、人工的に流されている。カナダ滝の上流には可動堰が設けられており、夜間の水量は日中の半分に調節されている。観光のオフシーズンになる冬の期間も水量が毎秒1、416m?に抑えられている[3]。アメリカ側からの眺望はほとんどが滝の背後に位置し、滝の正面や全体を眺望できるのはカナダ側になる。滝の発祥地点は、現在よりも約10km下流にあたるオンタリオ州側のクイーンストンやニューヨーク州側のルイストンの付近に位置する。浸食により年間1m以上ずつ後退し続け、ゴート島により二つに分岐し現在の姿となる。浸食が続けばエリー湖に埋没してしまうため、一世紀にかけて技術者の手により人工的に浸食が抑えられてきた。今もなお浸食のスピードは年間3cm程度に抑えられている。 2万5千年後には消滅するという。
イングランドは1610年にニューファンドランド島に漁業基地を設け、南部に13植民地を築いた。1689年と1763年に一連の北米植民地戦争が起こり、その結果、ユトレヒト条約(1713年)でノバスコシアが英国の支配下となり、七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)のパリ条約でカナダとヌーベルフランスの大部分がフランスからイギリスへ割譲された。1763年宣言はケベックをヌーベルフランスから分離し、ケープ・ブレトン島をノバスコシアに加えた。これはまたフランス系カナダ人の言語と信仰の自由を制限もしている。1769年にセント・ジョーンズ・アイランド(現在のプリンス・エドワード・アイランド州)が独立した植民地となった。ケベックでの紛争を避けるため、1774年にケベック法が制定され、ケベックの領域が五大湖からオハイオ川まで拡大され、ケベックにおいてフランス語とカトリック信仰、フランス民法が許された。これは13植民地の多くの住民を怒らせることになり、アメリカ独立への動因となってしまっている[9]。 1783年のパリ条約によってアメリカの独立は承認され、五大湖南部がアメリカへ割譲された。およそ5万人の王党派がアメリカからカナダへ逃れている[10]。一部の王党派のために沿岸諸州のニューブランズウィックがノバスコシアから分割された。ケベックの英語話者王党派のために1791年法が制定され、フランス話圏のローワー・カナダと英語圏のアッパー・カナダに分割され、各々が独自の議会を持った。アッパーおよびローワー・カナダは米英戦争(1812年戦争)の主戦場となった。カナダ防衛は英国系北アメリカ人に一体感をもたらした。1815年より英国とアイルランドからの大規模な移民が始まっている。19世紀の初めには材木業が毛皮貿易よりも重要になった。
アメリカのルーズベルト大統領が夫妻で訪れた際、イグアスの滝を見た夫人が「かわいそうな私のナイアガラよ」と言った話は有名。ナイアガラの滝はゴート島によって、カナダ側の国境を挟んだカナダ滝とアメリカ側のアメリカ滝とに大きく二つに分かれる。アメリカ側はさらにルナ島を挟んでブライダルベール滝がある。最終氷期(最後の氷河期)の後退期に形成され、五大湖の水流がナイアガラ崖線を経て大西洋に流れ込む過程にある。滝の高さはあまりないが幅が広く、単独で流れる滝の水量では北米で最も規模が大きい[1]。最大毎分168、000m?、平均毎分110、000m?の水量が流れている[2]。