トロント・ドミニオン・センターはミース・ファン・デル・ローエによる設計で、トロント・ドミニオン・バンク・タワー(223m)を筆頭に、人目を引く黒い近代的な6つの高層ビルで構成された複合オフィスビルである。オフィスやホテル、コンドミニアムを備えたトランプ・タワーの建設が2007年の夏より始められ、2010年に完成予定。この超高層ビルは70階建てでアンテナの高さを含めると325m(1、066ft)になるとされる。これは国内のオフィスビルとしてはファースト・カナディアン・プレイスに次ぐ高さに相当する(住宅、ホテルのビルとしては最も高い)。ファースト・カナディアン・プレイスは1976年に完成し、アンテナの高さを含めると355m(1、165ft)ある72階建ての超高層ビルである。北米で第5位の規模を持つロイヤルオンタリオ博物館は、ダニエル・リベスキンドの手によって再設計され、拡張工事が2007年6月に完成した。通りに向かって5階建てのクリスタル風の外観が既存の建物を覆うようなデザインになっている。オンタリオ美術館ではフランク・ゲーリーによる設計で内装、外観を含めて拡張工事が行われ、2008年11月に再公開された。
英国放送協会(BBC)がまとめた国際世論調査によると「世界に最も良い影響を与えている国」でカナダが1位(日本と同率)に選ばれた。カナダは世界的に高い好感度を得ている[2]。正式名称は「Canada」、発音は英語で[kæn?d?]フランス語で[kanada]。日本政府による公式名は「カナダ」[3]。
しかし1917年秋、友軍の危機を救う必要があったドイツ軍は東部戦線の状態が一段落ついたこともあり、オーストリア軍に山岳部隊を含む6個師団を援軍として派遣した。指揮権もオーストリア軍からドイツ軍へと移され、10月26日に独墺軍はトルミノ付近において突破作戦を敢行、イタリア陸軍に大打撃を与えた(カポレットの戦い)。この敗北を真摯に受け止めたイタリア軍は新たな司令官アルマンド・ディアズと英仏の支援の元に戦線を建て直し、1918年夏のピアーヴェ川の戦いではオーストリア軍の進撃を押しとどめた。ディアズはヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍との戦いに決着を付ける。カポレットの戦いの後、連合国側はイタリアのラパッロで会談した。其処でそれまでの個別の戦争指導を改め、ヴェルサイユに連合国最高会議を設立して各国の状況を考慮しながら統一された戦争計画を推進する事を決めた。西部戦線が塹壕線で膠着した頃、東部戦線では流動的な状況が続いていた。緒戦でロシア軍はオーストリア領ガリツィアおよびドイツ領東プロイセンへ進攻したが、ガリツィアでは勝利を得たものの、東プロイセンではタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗した。開戦前の予測は外れ、ロシアの軍事力はドイツとオーストリアとを足し合わせた国力に対抗できないことが露呈した。1915年春、ロシア軍はガリツィアから撤退した。独墺軍は5月にポーランドの南国境でゴルリッツ突破戦を実施し、著しい前進を達成した。独墺軍は8月5日にワルシャワを占領、ロシア軍はポーランド全土を放棄した。これは「大撤退」とも呼ばれる。
1793年、アッパーカナダ初代副総督であったジョン・グレイブス・シムコー(John Graves Simcoe)によってすでにあった入植地の上に町が設立され、ヨーク・オールバニ公の名から町名をヨークと名づけられた。そして、シムコーはアッパーカナダの首都をニューアーク(現在のナイアガラオンザレイク)よりアメリカからの攻撃にさらされにくいであろうと考えられたヨークに遷都することを決めた。細長く延びる砂州によってできた天然港の入口に要塞である「フォートヨーク」が建設された。町の入植は現在のパーラメント通りとフロント通りの近く、半島の背後にあたる港から東部の辺りに設立された。1813年、米英戦争の最中、ヨークの戦い(Battle of York)で町はアメリカ軍に占拠略奪された。町の明け渡し交渉は、ジョン・ストラッチャン(John Strachan)によって行われたが、アメリカ軍の兵士は5日間の占領期間の間にヨーク砦を破壊し、国会議事堂に火を放った。1834年3月6日、人口わずか9、000人であったがヨークの町は市制となり、名称を「トロント」へ改称した。初代トロント市長は急進的改革派の政治家ウィリアム・ライアン・マッケンジー(William Lyon Mackenzie)が就任した。彼は後の1837年に起きたアッパーカナダの反乱で、イギリス植民地政府であるアッパーカナダを相手に武装蜂起し、反乱軍を指揮したがあえなく敗退し、アメリカへ亡命することとなる。以後19世紀の終わりにかけて、トロントはカナダの代表的な移民先となり、急速に発展を見せた。最初の大きな人口流入は1846年から1849年に起きたアイルランドのジャガイモ飢饉によるもので、カトリック系のアイルランド人が多く移り住んだ。