後者の方式はゴム引布製起伏堰、通称ラバーダムなどと呼ばれるもので、倒伏の確実性が高いことや動力がわずかで済み、費用がかからないことなどから起伏堰として近年よく採用されている。引上堰(ひきあげぜき)は、上下に開閉する門扉をもつ。止水が容易で操作の信頼性が高いため、大規模な可動堰のほとんどはこの方式である。固定堰(吉野川第十堰)
英語ではAtlantic Oceanと表記される。この名称は、アトラス山脈のそばにある海という意味であり、さらにその名は、ギリシア神話の神アトラスに由来する。日本語の「大西洋」の由来は諸説あるが、「泰西」に基づくという説が有力。泰西は元々ヨーロッパを指す中国語。日本においても、戦国時代等の諸文献にその名を見ることができる。「泰」は「大」と同系の語であり、このことから「泰西洋」→「大西洋」となったといわれている。
こうした貧困の中、未成年の自殺者の割合はアメリカ国家平均の3倍を超えており、多くの保留地は10倍に上っている。ここ数年内でも、ブラックフット族の少女(当時18歳)が学校での飲酒を責められ、優等生だったにも拘らず、モンタナ州の保留地で精神安定剤を多量摂取して自殺した。アイダホ州のフォートホール保留地の16才の少年は、郡刑務所で首吊り自殺をしたが、ちょうど2日前に彼はロバート・F・ケネディ上院議員と保留地に関する状況について話し合ったばかりだった。麻薬を常用したり、ギャングに憧れる若者もおり、こうした厳しい状況の中でインディアン達は自分達で何とかこうした問題に取り組もうとしている。インディアン・カジノ経営のほか、観光や製造業などに進出している部族もあるが、ユタ州のゴシュート族のように、保留地を放射性廃棄物や生物兵器工場などの、産業とは名ばかりの汚染物質最終処分場にされている部族も多い。カリフォルニア州の繁栄は、上流の部族の水源を奪って実現している。セネカ族やマンダン族の保留地の大半は、ダム建設で沈められた。ウィンドリバー・ショーショーニー族の保留地は地下核実験場にされ、国連に提訴する事態にもなっている。ほとんどの保留地が産業を持てず、なし崩しにこういった負の遺産を受け入れさせられている。ハリウッド映画「ラスト・オブ・モヒカン」(1992年)の撮影現場で、インディアンがどう扱われていたか、出演したラッセル・ミーンズはこう報告している。「我々は撮影中、まるでモヒカンの村は“映画に出てくる(ステレオタイプの)アフリカの村”だな、と言い合った。ノースカロライナのロケ地に900人以上のインディアン・エキストラが集められ、山奥のボーイスカウト宿舎に泊まらされた。ここで我々は2人部屋に8人ずつ詰め込まれ、さながら強制収容所だった。インディアンの出番は主に夜だったので、夏の盛りに日中いっぱい、われわれは猛暑と湿気を耐えねばならなかった。医者は撮影で出払っていて見当たらず、我々は出歩くことも禁じられた。白人スタッフがストライキを始め、続いて我々インディアン・エキストラもストに入った…」
開戦時に南部が優位であった点:当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。しかし1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い、7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫し、戦争の長期化は避けられない情勢となった。1862年3月、ジョージ・マクレラン率いるポトマック軍がリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。しかし七日間の戦い(6月25日 - 7月1日)で、南軍のロバート・E・リー率いる北バージニア軍に大損害を与えたものの、現有戦力での攻略は無理と見て退却した。連動してジョン・ポープ率いるバージニア軍[6]もバージニアへ侵攻するが、第二次ブルランの戦い(8月28日 - 8月30日)でリーに敗北した。戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、アンティータムの戦い(9月17日)の結果、後退を強いられた。